第3章 サイコパス
3-2.フェリー・一つ目の死(2009/9~/11)
一つ目の死について話さねばならない。
取引先企業へのハッキングや、これらのスパムを目にした後、追跡はもはや疑いようがないと頭ではわかっていたが、一方で事実として受け入れられずにいた。
理性や常識、そんなもの共が、ある意味邪魔をしていた。
『現実にこんな事が起こるわけがない』という考えが、あれほどの凄まじい現象を目にしていてさえも、どうしても消えなかった。
『だがもし全て現実で、連絡した知人にも被害が及ぶとしたら?』
それは恐ろしい考えだった。私は、終息するまで彼らとの連絡を一切絶とうと決めた。
K氏とは、警察での一件で一度口論になったが、何度も家へ足を運んでくれたのだ、伝えておくべきだと思った。
9月始め、武蔵境駅前の公衆電話からKに電話をかけた。これはその時のやり取りである。
『尋常ではない事態だ。そちらも危険かもしれないから、しばらく連絡を絶つつもりだ』
「その後誰かに、何人かに相談しましたか?」
『相談相手の事は話せない。もし盗聴があれば彼らも危険になるかもしれない』
「名前は言わなくてもいいですから、何人に相談したか、人数だけでも教えて」
彼は、人数だけでも知りたいと食い下がったが、私は答えられなかった。
質問の意味が気になったが、警察が動かない以上、私一人ではどうする事もできない。
あれだけ真っ向から否定したのだ、Kが自ら行動を起こすとも思えなかった。
自分と同じ目に遭わないよう、それだけを祈った。
数日後、梱包を解かずにとっておいた新品ノート機を持ち、私は東京湾からフェリーで四国へ向かった。
行先そのものに意味はない。目的は告発状を仕上げるためだった。
とにかく出来るだけ地方の遠い場所へ飛べば、通信インフラもネットワーク自体が切り替わる。
また海の上なら、流石に追えないだろうと考えた。
とにかく追跡のない遠くへ逃れたかった。その時の、正直な気持ちである。
ところが乗船後、一度も使っていないケーブルをPCへ繋ぎ、電源へ差して起動すると、たちまち例の過負荷が始った。どういう仕組みなのかは全くわからなかったが、気のせいなどではない。Windows標準の、最も単純な「メモ帖」機能さえ使う事ができなかったのだ。
そのノートPC用に持ってきた、やはり箱から出したばかりの2個の充電機も同じだった。
コンセントに繋いだ途端、すぐにジージー音が始まり、ものの10分で外さねばならなかった。
何度やり直しても、電源に接続した途端にあっという間に異常加熱し、今にも火を噴きそうになった。
ケーブルレスでPCを使うために直前に購入したものだったが、結局それさえ出来なかった。
私は血の気が引くのを感じながら、頭を抱えた。
それはつまり、事実上、国内のあらゆる無線網と、施設・船舶にまでハッキングが可能である事を意味した。
予約のためにかけた電話の相手先も、やはりSには丸見えだったのだ。
結局、宿泊先でもPCは全く使い物にならなかった。
携帯を置いてこなかった自分の甘さを呪うしかなかった。
“そこまではやるまい”というある種の思い込みと“一般常識”が、判断を誤らせたのだ。
狡猾さばかりか、執念深さも尋常ではなかった。
この人物には、“常識”など一切通用しないのだと、この時はじめて痛感した。
同時に、過去に届いたスパムの文面が頭をよぎった。
「世界は、赤いベリーによって飲み込まれる」
『“世界”とは、ゲーム空間の事ではないのかもしれない』という考えが、そのまま離れなくなった。
世界中で暗躍する“本物のサイバーテロリスト”、そう考えれば、猛スピードで習得し続ける多言語、尋常ではない狡猾さと執念深さ、キー入力やログ改ざんの並外れた早さ、どれも辻褄が合っていた。
疲れ切っていたが、もう眠るどころではなかった。Sの本性にはじめて恐怖を覚えていた。
私は稚拙な英文で、何とか告発状を書きはじめた。
そして資料をまとめながら、これを見つけた。あの日は出力するだけで精一杯で、見落としていたのだ。
警察の捜査を妨害したあの日から、Kを“仲間”と呼ぶのがお気に入りだった。
「何人に相談したか、人数だけでも教えて」
それが怯えからの質問だったと、ようやく私は理解した。だがもう手遅れだった。
彼は、送電線や電源ケーブルが侵入路である事を知らない。防ぐ手立ても無い。
我が家ほどひどい状況にならない事を、願うばかりだった。
数日後、帰り道の大阪から1通の告発状を送った。
やれる事はやり尽くし、限界だと感じた。
9月下旬、私は家のPCを丸ごと廃棄した。
廃棄する際、感染が広がるのを防ぐ為、HDDだけは抜き取った。抜き取ったHDDは、自分の手で完全にディスクを破壊してから処分した。
家電の使用も最小限に抑えたが、それでも巨大電子レンジの気配はなくならなかった。
スイッチや壁の奥から聞こえるジージー音が、何をやっても消えないのだ。
家電の使用を抑えると、今度は、道路脇などに設置された変電設備がショート音を発しはじめ、近所を歩くだけで、さまざまな方向から聞こえてくるようになった。
当時の私の家は、PCもなく、小型家電はほとんどが壊れ、冷蔵庫さえ電源を時々抜いてしまうような状態だったが、電気料金は毎月15,000円を超えた。
引っ越し前の3倍近い金額である。過電流は確かに存在したのだ。
11月、とうとう私はパニック症候群に陥った。
電車に乗れなくなり、外出もできず、完全に活動を止め、孤立した。強制された長い休暇が始った。
不気味なショート音は徐々に沈静化していったが、完全に消えてなくなるまではさらに半年以上、2010年の夏頃までかかった。
そして武蔵境駅前の公衆電話からかけた1本の電話、それはKとの最後の会話になった。
2011年秋、まだ若かった彼は、自室で変死した。
一人息子だった。
取引先企業へのハッキングや、これらのスパムを目にした後、追跡はもはや疑いようがないと頭ではわかっていたが、一方で事実として受け入れられずにいた。
理性や常識、そんなもの共が、ある意味邪魔をしていた。
『現実にこんな事が起こるわけがない』という考えが、あれほどの凄まじい現象を目にしていてさえも、どうしても消えなかった。
『だがもし全て現実で、連絡した知人にも被害が及ぶとしたら?』
それは恐ろしい考えだった。私は、終息するまで彼らとの連絡を一切絶とうと決めた。
K氏とは、警察での一件で一度口論になったが、何度も家へ足を運んでくれたのだ、伝えておくべきだと思った。
9月始め、武蔵境駅前の公衆電話からKに電話をかけた。これはその時のやり取りである。
『尋常ではない事態だ。そちらも危険かもしれないから、しばらく連絡を絶つつもりだ』
「その後誰かに、何人かに相談しましたか?」
『相談相手の事は話せない。もし盗聴があれば彼らも危険になるかもしれない』
「名前は言わなくてもいいですから、何人に相談したか、人数だけでも教えて」
彼は、人数だけでも知りたいと食い下がったが、私は答えられなかった。
質問の意味が気になったが、警察が動かない以上、私一人ではどうする事もできない。
あれだけ真っ向から否定したのだ、Kが自ら行動を起こすとも思えなかった。
自分と同じ目に遭わないよう、それだけを祈った。
数日後、梱包を解かずにとっておいた新品ノート機を持ち、私は東京湾からフェリーで四国へ向かった。
行先そのものに意味はない。目的は告発状を仕上げるためだった。
とにかく出来るだけ地方の遠い場所へ飛べば、通信インフラもネットワーク自体が切り替わる。
また海の上なら、流石に追えないだろうと考えた。
とにかく追跡のない遠くへ逃れたかった。その時の、正直な気持ちである。
ところが乗船後、一度も使っていないケーブルをPCへ繋ぎ、電源へ差して起動すると、たちまち例の過負荷が始った。どういう仕組みなのかは全くわからなかったが、気のせいなどではない。Windows標準の、最も単純な「メモ帖」機能さえ使う事ができなかったのだ。
そのノートPC用に持ってきた、やはり箱から出したばかりの2個の充電機も同じだった。
コンセントに繋いだ途端、すぐにジージー音が始まり、ものの10分で外さねばならなかった。
何度やり直しても、電源に接続した途端にあっという間に異常加熱し、今にも火を噴きそうになった。
ケーブルレスでPCを使うために直前に購入したものだったが、結局それさえ出来なかった。
私は血の気が引くのを感じながら、頭を抱えた。
それはつまり、事実上、国内のあらゆる無線網と、施設・船舶にまでハッキングが可能である事を意味した。
予約のためにかけた電話の相手先も、やはりSには丸見えだったのだ。
結局、宿泊先でもPCは全く使い物にならなかった。
携帯を置いてこなかった自分の甘さを呪うしかなかった。
“そこまではやるまい”というある種の思い込みと“一般常識”が、判断を誤らせたのだ。
狡猾さばかりか、執念深さも尋常ではなかった。
この人物には、“常識”など一切通用しないのだと、この時はじめて痛感した。
同時に、過去に届いたスパムの文面が頭をよぎった。
「世界は、赤いベリーによって飲み込まれる」
『“世界”とは、ゲーム空間の事ではないのかもしれない』という考えが、そのまま離れなくなった。
世界中で暗躍する“本物のサイバーテロリスト”、そう考えれば、猛スピードで習得し続ける多言語、尋常ではない狡猾さと執念深さ、キー入力やログ改ざんの並外れた早さ、どれも辻褄が合っていた。
疲れ切っていたが、もう眠るどころではなかった。Sの本性にはじめて恐怖を覚えていた。
私は稚拙な英文で、何とか告発状を書きはじめた。
そして資料をまとめながら、これを見つけた。あの日は出力するだけで精一杯で、見落としていたのだ。
【別紙-B】
-----------------(4)-------------
Wow, Just saw, A huge rat scurry across a power line onto my neighbor's roof. *shudder*9:51 PM Aug 25th API
「ワオ!感じる。膨大なネズミが、送電線の向こう側、私の仲間の屋根の上へ猛烈な勢いで伝っていく。
*ぞくぞくする*」
----------------------------------
-----------------(4)-------------
Wow, Just saw, A huge rat scurry across a power line onto my neighbor's roof. *shudder*9:51 PM Aug 25th API
「ワオ!感じる。膨大なネズミが、送電線の向こう側、私の仲間の屋根の上へ猛烈な勢いで伝っていく。
*ぞくぞくする*」
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警察の捜査を妨害したあの日から、Kを“仲間”と呼ぶのがお気に入りだった。
「何人に相談したか、人数だけでも教えて」
それが怯えからの質問だったと、ようやく私は理解した。だがもう手遅れだった。
彼は、送電線や電源ケーブルが侵入路である事を知らない。防ぐ手立ても無い。
我が家ほどひどい状況にならない事を、願うばかりだった。
数日後、帰り道の大阪から1通の告発状を送った。
やれる事はやり尽くし、限界だと感じた。
9月下旬、私は家のPCを丸ごと廃棄した。
廃棄する際、感染が広がるのを防ぐ為、HDDだけは抜き取った。抜き取ったHDDは、自分の手で完全にディスクを破壊してから処分した。
家電の使用も最小限に抑えたが、それでも巨大電子レンジの気配はなくならなかった。
スイッチや壁の奥から聞こえるジージー音が、何をやっても消えないのだ。
家電の使用を抑えると、今度は、道路脇などに設置された変電設備がショート音を発しはじめ、近所を歩くだけで、さまざまな方向から聞こえてくるようになった。
当時の私の家は、PCもなく、小型家電はほとんどが壊れ、冷蔵庫さえ電源を時々抜いてしまうような状態だったが、電気料金は毎月15,000円を超えた。
引っ越し前の3倍近い金額である。過電流は確かに存在したのだ。
11月、とうとう私はパニック症候群に陥った。
電車に乗れなくなり、外出もできず、完全に活動を止め、孤立した。強制された長い休暇が始った。
不気味なショート音は徐々に沈静化していったが、完全に消えてなくなるまではさらに半年以上、2010年の夏頃までかかった。
そして武蔵境駅前の公衆電話からかけた1本の電話、それはKとの最後の会話になった。
2011年秋、まだ若かった彼は、自室で変死した。
一人息子だった。