第1章 日本人ハッカー

11-4.フェイクWAN(2009/4)

4月半ばになっていた。
8000円を騙し取られて以降、インターネットはまともに接続さえできくなっていった。

たまに接続できても、そこはまったくの別世界。正常なWANではなかった。
「Google」も「Yahoo!」も「Bing」も存在したが、どれもURLがおかしい。
先頭にあるはずのgoogleやbingなどのドメイン名が、何故かURLの末尾についているのだ。さらにどんな単純なキーワードを入れようが、検索結果が1つか、多くても2~3行しか出てこない。サイドメニューの広告も1、2個しかない。

さらにクリックすると、どのページも得体の知れない何かを強制的にダウンロードさせられた。
大手企業のホームページも存在したが、開くとレイアウトが崩れていたり、メニューから先の2ページ目以降が、大部分欠落していて存在しない。それらは、中身のない空っぽのサイトだった。

『一体これは何だ?』
最初は一部のURLだけが異常なのかと思ったが、違っていた。
複数あるサーチエンジン画面も、広告も、検索結果のURLも何もかもが丸ごと偽物だった。
そう気づいた途端、緊張で手に冷や汗が出てきた。
今画面上でWANのように見えているネットワーク全体が、インターネットではない別の何かだった。
しかも間違いなく悪意をもって作られたネットワークだ。

Sが自分で作ったのか。そもそもどうすればそんな大規模な仕掛けを作れるのか。
疑問ばかりが急激に膨れ上がっていったが、答えは何一つ見つからなかった。

それが何であったのか、ようやく判明したのは去年の2015年になってからだ。
多数の“C&Cサーバー”で構成された、偽のWAN”。
だが実際にそれを目にしたのは7年も前、2009年の春である。

『誰かに知らせなければ、だが誰も信じない。それ以前に一体誰に知らせるというのか…』
“正規サイトの不正コピー”さえ、その存在をまだ誰も知らなかった。ましてや偽のWANなどあり得ない話だった。貴方は、生れてこのかた一度も感じた事のない絶望感に襲われた。

「いま私は0と1の世界に立っている。どんなプロトコルを使おうが、それを通り抜ける事はできない。何をしても無駄だ」絶妙なタイミングで届いたスパムにそう書かれていた。

2008年暮れからの約5か月間、ただ漫然と被害を受け続けていたわけではない。
貴方は助けが要ると考え、友人や仕事の伝手から何人かに相談をした。
最初にMicrosoftに務める友人にアドバイスを求めた。すぐにPCサポートのリカバリー専門窓口を利用するよう薦められた。さっそくリカバリーを依頼した。作業が完了し、担当者が帰ったわずか2時間後、見覚えのないフォルダが勝手に作成されていた。無論LANは無しだ。

不気味なPC群を直接目にした最初の人物は、親しくしていた若いフリーのSEだった。
以降は彼をK氏と呼ぶことにする。
K氏に経緯を説明し、何度やってもリカバリーは失敗する、これは間違いなくハッキングだと告げると、彼はさっそくPCを調べ始め、真っ先にタスクマネージャーの異常を見つけて声を上げた。
「おかしいですよこれ!」表示内容を変更するためのチェックボックスがグレーアウトしていた。
設定変更もできない。一切の自由が効かないのだ。
次に、メニュー選択さえ出来ないBIOSを見せた。しかし彼は、それを見ても認めようとしなかった。
「BIOS乗っ取りだなんて、そこまで高度な技術を持つハッカーが、この日本にいるわけがないんですよ!」
目の前の現実がなければ同感だった。だが違う。
『あまりに狡猾故に、誰にも見つからなかった。ただそれだけの話だ』

長い付き合いがあり、Kの事はよく知っていた。
彼は若いのに頑固な性格で、一度言い出したらきかない。且つ自分の技術に自信を持っていた。
どうやら自分なら解決できると考えたようで、貴方が止めるのも聞かず、化け物のようなPCに自分のノートPCをUSBケーブルで接続した。

その後彼は、誰も予想していなかった不運に遭う。だがその話は後に回そう。

その頃には、周辺機器までが常時ジージーという奇怪なショート音を発し、プリンターも1枚プリントするだけで、何度も失敗して10分近くかかるような状態だった。
さらに、固定電話と携帯電話にも異変が起きていた。
だがその頃はまだ、ガラクタ同然となったPCや、明らかにS本人が送信者と思われるスパムの山。それらを証拠品として残すにはどうすればよいのか、貴方はそればかりを考えていた。

どれもこれもがあまりに現実離れしていた。
ハッキング被害だけでも、第三者に説明するのは困難に思われた。
だが何もしなければ、ただ単に仕事を失い、不安な毎日が続くだけだ。
そんなわけにはいかなかった。それまでの被害を振り返り、貴方は無性に腹が立った。
疲労はすでに限界に達し、やれる事はもう無い。「警察へいこう」

気力をふり絞り、貴方は金を騙し取られた偽サイトの画像など、わずかばかりの記録を出力するために、自由にならないPCとプリンターを再び操作し始めた。

だがしかし、これらはすべて序章にすぎなかった。