第1章 日本人ハッカー
1-2.ハッカーの正体(2008/7~/12)
2008年の夏、その仮想空間内では一つのトラブルが続発していた。
アカウント・ハッキングだった。
ある種のアバター群が片っ端からハックされ、所持していた仮想通貨が次々と盗まれていた。
当時の情報によれば、被害を受けたアバターは数百を超えた。
またゲームシステムとは切り離された、ユーザ―のアカウント情報を管理するサーバーまでが何度もハックされ、個人情報や決済情報が流出。
貴方のカードや個人情報もその例外ではなかった。
この種のトラブルは、ネットゲーム上にはよくある話で別段珍しくはない。
だが驚くべき事実が他にあった。
ハッキングの常習犯、つまり犯人のハッカーはSだった。
もちろん最初からハッキリしていたわけではなく、知った後もしばらくはまるで信じられなかった。
もしかすると外国人ハッカーが別にいて、Sは成り済ましの被害者かもしれないとも思った。
しかし夏から秋へと移る2~3ヶ月の間に、それは確信へと変わっていった。
最初の情報提供者は、もう一人の親しかった友人Aであった。
その意味でAは、最初からの重要な証人であり、以降の出来事にも大きく関わることになるが、基本的に犯罪とは無縁の人物である。
その辺りの細かな経緯については後回しにしよう。
その後貴方は、ハッキングがまさに行われた瞬間を、嫌というほど目にしなければならなかった。
アバターが備えているプロファイル機能。そこにユーザ―が自身で掲載した画像や文字情報が、次々と猥褻なSEX画像や嫌がらせで上書きされていく。
驚いた事に、それはいつも貴方の周囲で集中的に起こり、どこへ移動しようがどこまでも付き纏った。
ストーキングである。
気づいた時は、金づちで脳天を叩かれたようなショックを受けたが、呆然としている暇はなかった。
英語で書かれた文書が、来る日も来る日も大量に貴方の元へ届くようになっていた。
IMや手紙形式のファイルで直接送られてくる事もあれば、アバターがこれ見よがしに看板のようなメッセージ付きプレートをくっ付けて現れることもあった。
最初のうちは無視していたが、真相を知るためには読む必要があった。
ちりばめられた比喩の類に閉口しながら、貴方は不得手なそれら英文を何とか翻訳した。
送り主のアカウント名はその都度バラバラだった。
しかし読んでみると、全体の約6割はハッキングを受けた被害者側から送られたモノだとわかった。
「ハッカーでストーカーは、貴方の親しい友人。貴方はナッツ(男性)をくっつけて歩いています」
「私は600万(円換算)も盗まれ、直接交渉して何とか返してもらった。犯人は貴方の傍にいます」
「止めてください。彼は会社(仮想空間内の企業)や世界(仮想世界)を何もかも破壊し続けています」
そして残りは、嫌がらせの類もしくは犯行報告やそれを自慢する内容だった。
「私は詩人。妻と娘がいます。信じられないだろうが、普段は家の窓から釣りをして楽しんでいます」
「ブタの血と肉(アバター)は私の糧。私のパンツ。その亡骸で山を築こう」
「ああ私の脚、美しい脚(アバターの脚)。私はこのハリウッド世界(ゲームの仮想空間)を手に入れる」
「世界の主催者達はよくやった。褒めてあげよう(当時、運営側とハッカーとの攻防戦が続いていた)。だが私の本当の力をまだ知らない。見せてあげよう」
「のろまなビッチ。愚鈍なブタどもは私のモノだ。お前にブタどもは助けられない」
最初のマナーの良かったイメージと、不遜且つ下品なそれら嫌がらせとのギャップに初めは混乱した。
だが英語でも日本語でも、文章には人それぞれの書グセや個性が必ず出る。
何故いちいち送って来るのか理由はまるでわからなかったが、誰がそれを書いたかは一目瞭然だった。
季節が冬へと変わる頃には、もはや疑う余地はなくなっていた。
同じ頃、貴方は自宅の家の中で異変が起きている事に気付き、愕然とするのだった。
日ごろ使っていたPCが異常を起こしていた。
ソフトを何も起動していないのに過負荷で動かない、何も入力出来ない状態が頻発するようになっていた。またディスク・トレーは、勝手に出たり入ったりを繰り返していた。
ハッキングの可能性は無論考えたが、認めたくなかった。
そもそもハッカーが、有名人でも何でもないただの個人を狙うなどという話は聞いた事がない。
きっと故障に違いない。いずれにしても、買い替えれば治まるだろうと貴方は考えた。
ところが、新品で購入したPCは、ネットワークへ接続する前、箱から出して電源ケーブルを差し、起動した途端にブラックアウトしたまま動かず、その日の内にサポートのお世話になった。
数日かけて復帰させるも、すぐにまた過負荷の状態に陥った。
その時に確認した新品PCのハードディスク内部は、サポート担当者が途方に暮れるほど、すでに出荷状態とは異なるおかしな状態になっていた。
畳みかけるように、今度はゲームサービスを提供している企業側から妙なメールが届いた。
「監視対象の日本の“ウサギ”を見つけるため、ウサギ狩りに参加してください」
日本人にとっては、相当わかり難い表現である。
正直、比喩ばかりの文章にはうんざりしていたが、中にTwitterのURL、つまりゲームとは別の連絡手段が記載されているのを見て、取り敢えず貴方への協力要請である事だけは理解した。
また監視対象は日本人で、間違いなく身近にいる人物なのだという事も。
何とかしなければと思った。そして貴方は、唐突にSを説得しようと思い立つ。
それは友情の為だったのだろうか?
いや違う。多くの状況を目にしてもなお、すぐに信じる気にはどうしてもなれなかった。
「居酒屋で一緒に飲み、友達と思っていた相手がハッキングと窃盗行為。そしてストーカーだ?」
現実にそんな事が起こるわけがない、あまりに馬鹿げた話に思えた。
確かめなくては。
『今すぐハッキングを止めろ。盗んだアカウントと金を返しなさい』
Sのアバターを前に、チャット画面にそう書き込んでリターンキーを押した。
だがその瞬間までは、ある意味あてずっぽうにすぎなかった。
しかしその人物は、高笑いの様相でこう言い放った(正確にはチャットでの文字表現)。
「Wooops :D:D I'm a ENIGMA(謎)、Enigmatic figure(謎の数字)。私は疑似餌を手作りするのが趣味の釣り師でハッカーなんだよ。窓からイナダが釣れた。嬉しかったなぁ、ありがとう。だが違法な事は何一つしていない。私の標的は一人。手に入れるのはただの仮想通貨だ。盗んで一体何が悪い?」
そして数秒後、たった今読んだばかりの日本語で書かれた過去ログが、チャットウィンドウ上で凄まじいスピードで英語に書き換わっていった。残ったのは、当り障りのない英文だけだ。
チャット履歴、つまり“ログデータ” 改ざんの瞬間を、貴方はこの時はじめて目撃した。
身体は硬直し、頭の中が真っ白になった。
思考がすごいスピードでぐるぐると回転を始めた。
『一体何の話をしているのか。窓からイナダを釣った?標的が一人?』わからなかった。
Sのセリフは、不自然に高慢で芝居じみていた。
『この人間はどこかがおかしい。大事な何かが欠けている』
その時に感じたが、それが何かは考えている余裕がなかった。
貴方の顔は、おそらく真っ青に硬直していたろう。
だがこれで、大きな疑問が一つ解けた。『間違いなくハッカーだ』
そして次の瞬間、これまで見えていなかったSの本性に、貴方はようやく気づく。
『ただのハッカーではない。人を騙し翻弄するのを楽しんでいる』
ざわざわと皮膚が逆立ち、動物としての本能が、大声でこいつは敵だと叫んでいた。
本物の詐欺師で異常者なのだ。
人間サイズの漆黒の穴が、突如目の前に出現したかのようだった。
そしてSは、その日以来、貴方に対して"隠す"という事をしなくなった。
アカウント・ハッキングだった。
ある種のアバター群が片っ端からハックされ、所持していた仮想通貨が次々と盗まれていた。
当時の情報によれば、被害を受けたアバターは数百を超えた。
またゲームシステムとは切り離された、ユーザ―のアカウント情報を管理するサーバーまでが何度もハックされ、個人情報や決済情報が流出。
貴方のカードや個人情報もその例外ではなかった。
この種のトラブルは、ネットゲーム上にはよくある話で別段珍しくはない。
だが驚くべき事実が他にあった。
ハッキングの常習犯、つまり犯人のハッカーはSだった。
もちろん最初からハッキリしていたわけではなく、知った後もしばらくはまるで信じられなかった。
もしかすると外国人ハッカーが別にいて、Sは成り済ましの被害者かもしれないとも思った。
しかし夏から秋へと移る2~3ヶ月の間に、それは確信へと変わっていった。
最初の情報提供者は、もう一人の親しかった友人Aであった。
その意味でAは、最初からの重要な証人であり、以降の出来事にも大きく関わることになるが、基本的に犯罪とは無縁の人物である。
その辺りの細かな経緯については後回しにしよう。
その後貴方は、ハッキングがまさに行われた瞬間を、嫌というほど目にしなければならなかった。
アバターが備えているプロファイル機能。そこにユーザ―が自身で掲載した画像や文字情報が、次々と猥褻なSEX画像や嫌がらせで上書きされていく。
驚いた事に、それはいつも貴方の周囲で集中的に起こり、どこへ移動しようがどこまでも付き纏った。
ストーキングである。
気づいた時は、金づちで脳天を叩かれたようなショックを受けたが、呆然としている暇はなかった。
英語で書かれた文書が、来る日も来る日も大量に貴方の元へ届くようになっていた。
IMや手紙形式のファイルで直接送られてくる事もあれば、アバターがこれ見よがしに看板のようなメッセージ付きプレートをくっ付けて現れることもあった。
最初のうちは無視していたが、真相を知るためには読む必要があった。
ちりばめられた比喩の類に閉口しながら、貴方は不得手なそれら英文を何とか翻訳した。
送り主のアカウント名はその都度バラバラだった。
しかし読んでみると、全体の約6割はハッキングを受けた被害者側から送られたモノだとわかった。
「ハッカーでストーカーは、貴方の親しい友人。貴方はナッツ(男性)をくっつけて歩いています」
「私は600万(円換算)も盗まれ、直接交渉して何とか返してもらった。犯人は貴方の傍にいます」
「止めてください。彼は会社(仮想空間内の企業)や世界(仮想世界)を何もかも破壊し続けています」
そして残りは、嫌がらせの類もしくは犯行報告やそれを自慢する内容だった。
「私は詩人。妻と娘がいます。信じられないだろうが、普段は家の窓から釣りをして楽しんでいます」
「ブタの血と肉(アバター)は私の糧。私のパンツ。その亡骸で山を築こう」
「ああ私の脚、美しい脚(アバターの脚)。私はこのハリウッド世界(ゲームの仮想空間)を手に入れる」
「世界の主催者達はよくやった。褒めてあげよう(当時、運営側とハッカーとの攻防戦が続いていた)。だが私の本当の力をまだ知らない。見せてあげよう」
「のろまなビッチ。愚鈍なブタどもは私のモノだ。お前にブタどもは助けられない」
最初のマナーの良かったイメージと、不遜且つ下品なそれら嫌がらせとのギャップに初めは混乱した。
だが英語でも日本語でも、文章には人それぞれの書グセや個性が必ず出る。
何故いちいち送って来るのか理由はまるでわからなかったが、誰がそれを書いたかは一目瞭然だった。
季節が冬へと変わる頃には、もはや疑う余地はなくなっていた。
同じ頃、貴方は自宅の家の中で異変が起きている事に気付き、愕然とするのだった。
日ごろ使っていたPCが異常を起こしていた。
ソフトを何も起動していないのに過負荷で動かない、何も入力出来ない状態が頻発するようになっていた。またディスク・トレーは、勝手に出たり入ったりを繰り返していた。
ハッキングの可能性は無論考えたが、認めたくなかった。
そもそもハッカーが、有名人でも何でもないただの個人を狙うなどという話は聞いた事がない。
きっと故障に違いない。いずれにしても、買い替えれば治まるだろうと貴方は考えた。
ところが、新品で購入したPCは、ネットワークへ接続する前、箱から出して電源ケーブルを差し、起動した途端にブラックアウトしたまま動かず、その日の内にサポートのお世話になった。
数日かけて復帰させるも、すぐにまた過負荷の状態に陥った。
その時に確認した新品PCのハードディスク内部は、サポート担当者が途方に暮れるほど、すでに出荷状態とは異なるおかしな状態になっていた。
畳みかけるように、今度はゲームサービスを提供している企業側から妙なメールが届いた。
「監視対象の日本の“ウサギ”を見つけるため、ウサギ狩りに参加してください」
日本人にとっては、相当わかり難い表現である。
正直、比喩ばかりの文章にはうんざりしていたが、中にTwitterのURL、つまりゲームとは別の連絡手段が記載されているのを見て、取り敢えず貴方への協力要請である事だけは理解した。
また監視対象は日本人で、間違いなく身近にいる人物なのだという事も。
何とかしなければと思った。そして貴方は、唐突にSを説得しようと思い立つ。
それは友情の為だったのだろうか?
いや違う。多くの状況を目にしてもなお、すぐに信じる気にはどうしてもなれなかった。
「居酒屋で一緒に飲み、友達と思っていた相手がハッキングと窃盗行為。そしてストーカーだ?」
現実にそんな事が起こるわけがない、あまりに馬鹿げた話に思えた。
確かめなくては。
『今すぐハッキングを止めろ。盗んだアカウントと金を返しなさい』
Sのアバターを前に、チャット画面にそう書き込んでリターンキーを押した。
だがその瞬間までは、ある意味あてずっぽうにすぎなかった。
しかしその人物は、高笑いの様相でこう言い放った(正確にはチャットでの文字表現)。
「Wooops :D:D I'm a ENIGMA(謎)、Enigmatic figure(謎の数字)。私は疑似餌を手作りするのが趣味の釣り師でハッカーなんだよ。窓からイナダが釣れた。嬉しかったなぁ、ありがとう。だが違法な事は何一つしていない。私の標的は一人。手に入れるのはただの仮想通貨だ。盗んで一体何が悪い?」
そして数秒後、たった今読んだばかりの日本語で書かれた過去ログが、チャットウィンドウ上で凄まじいスピードで英語に書き換わっていった。残ったのは、当り障りのない英文だけだ。
チャット履歴、つまり“ログデータ” 改ざんの瞬間を、貴方はこの時はじめて目撃した。
身体は硬直し、頭の中が真っ白になった。
思考がすごいスピードでぐるぐると回転を始めた。
『一体何の話をしているのか。窓からイナダを釣った?標的が一人?』わからなかった。
Sのセリフは、不自然に高慢で芝居じみていた。
『この人間はどこかがおかしい。大事な何かが欠けている』
その時に感じたが、それが何かは考えている余裕がなかった。
貴方の顔は、おそらく真っ青に硬直していたろう。
だがこれで、大きな疑問が一つ解けた。『間違いなくハッカーだ』
そして次の瞬間、これまで見えていなかったSの本性に、貴方はようやく気づく。
『ただのハッカーではない。人を騙し翻弄するのを楽しんでいる』
ざわざわと皮膚が逆立ち、動物としての本能が、大声でこいつは敵だと叫んでいた。
本物の詐欺師で異常者なのだ。
人間サイズの漆黒の穴が、突如目の前に出現したかのようだった。
そしてSは、その日以来、貴方に対して"隠す"という事をしなくなった。