第1章 日本人ハッカー

1-3.ラッパー実験場(2008/12~2019/4)

貴方は、住まいを移し、通信機器もすべて新しく入れ替え、念の為に電話番号は移転先の番号案内サービスを利用するのを止めた。2008年12月の中旬だ。
引っ越しの理由は別にあったが、それによって事態は改善すると期待した。
だがそれは止むどころか、日増しに激しさを増していった。

告白のあった数日後には、貴方のPCはまるで化け物のように変化していた。

LANケーブルは差そうがさすまいが、まるで関係なかった。
電源ケーブルだけでそれらは勝手に動き、過負荷で単なるテキスト入力も出来ない。Windowsタスクマネージャ(PCの状態をモニターする機能)で何度確認しても、過負荷の原因はわからない。
ディスク・トレーは生き物のように出入りを繰り返し、パスワードでログインすると、すぐに別の誰かがログインするような有様だった。

システム内部へのアクセス権が、完全に奪われていた。
買ったばかりの1台を諦め、再び新品を購入してPCは3台になったが、何も変わらなかった。

リカバリーの直後は特に不気味だった。
処理を終えて起動してみると、本来ソフトが何も入っていない真っ新になっているはずが、3台それぞれに入っていた別々のソフトウェアが、入れ替わった状態ですでにインストールされていた。
つまりAというPCに入っていたソフトウェがPC-Bへ、PC-Bに入っていたソフトがPC-Cへ、リカバリーの度にテレポートするのである。
またそれらのソフトウェアは、何度削除しても1時間余りで独りでに蘇り、ディスクトップ上にまたアイコンが現れた。

正味28回のリカバリーは徒労に終わり、疲労困憊と、使えなくなった買ったばかりのPC、および同じく新品のリカバリー用HDDだけが残った。
繰り返すが、この頃、PCのLANケーブルはずっと抜きっぱなしであった。またリカバリー処理は1台ずつ行い、その間は他の2台は起動さえしていない。接続は電源ケーブルのみである。

気が狂いそうだった。侵入経路がまるでわからなかったからだ。
LANケーブルもなければ無線用の機器もない。

貴方は、必死に自問自答を繰り返していた。
オンボード上に無線LAN機能がある事を思い出し、BIOSから遮断する事を思いついた。
だがBIOS画面を開くと、そこには何年も前の日付が現れた。これではOSは正常に動くはずがない。
メニューを操作している内に、今度はそのメニューがグレイアウトの選択不可状態になり、結局、設定変更する前にメニューを操作する事さえ出来なくなった。

何かをしようと操作を始めると、あっという間に操作自体が出来なくなる。その繰り返しだった。
完全に丸見えなのだと思った。

“私はハッカー”発言からここまで、3か月余りが経過し、2009年も4月になろうとしていた。
「ゾンビPC」の名が巷で騒がれ始めたのは、その数ヶ月ほど後の事だ。

貴方は疲れ切っていた。
仕事も去年の暮れから途絶えたままだ。それどころか、道具をすべて失っていた。
警察への通報、もうそれしか方法はない。

しかしハッキング被害には、物的証拠というものが存在しない。
何か証拠が必要だと思っていた。データや画像などの記録だけが頼りである。
だが証拠集めは、想像を絶する困難を伴った。

Sは、貴方が考えるより遥かに狡猾だったのである。
それに気づくまで、さらに1月以上を費やした。

記録メディア用のディスクドライブは、とっくの昔に使えない。
USBメモリは差しただけで妙なファイルが自動作成され、とても使う気にはなれなかった。
そこでPCの挙動やファイルをキャプチャし、画像で外部へメール送信する事を考えた。

貴方は久々にLANケーブルを差し、インターネットへ接続した。

だが画面のキャプチャを送信しようとした途端、メールやSkypeはたちまち送受信ができなくなった。
たまに送信できても、何故か相手側へ着信しない。サーバー上の貴方のメールボックスだけが固まってしまったかのようだ。

代わりに膨大な量の外国語で書かれたスパムメールだけが休みなく届き、1日100通を超えた。
送信元のIPアドレスを調べてみる事にした。すると大半がウクライナとロシア、および中国だったが、中身はほぼ英語だった。まさかと思いつつ一部を翻訳してみると、7割は猥褻なSEXグッズや薬の広告。残りの3割は、例の芝居じみた嫌がらせだった。

この頃、最も嫌悪感を覚えたのは、WindowsのUpdateである。
ほぼ毎日届くUpdate通知、しかし実行する度にPCの症状は逆に悪化していった。
件のゲームは当然遠ざかっていたが、スパムはそれについても言及していた。
「○○のハリウッド世界はすでに私の手の中。スター達もだ」
「小さなベリー。真っ赤なベリー。それは小さいが恐ろしい威力をもち、操れるのは私だけ。世界は、赤いベリーによって飲み込まれる」

仕組みはまるでわからなかったが、送り主はどう見てもSに違いなかった。
メールサービスのサポートへも苦情を申し立てたが、結局埒が明かず、仕事で使っていたメールボックスまで放置せざるを得なかった。

我が目を疑うような現象は、その後もほぼ毎日続いていた。

ある日貴方は、藁にもすがる思いで新しいセキュリティソフトを手に入れようとした。
カードを使うのを避けて代金はPayPalで支払ったが、ダウンロード画面へ進んでもダウンロード用のボタンがどこにもない。
間髪を入れず、一通のスパムが届く。うんざりしながら開くと、そこには英語で一言書かれていた。
「ワオ!お前からもとうとう盗んでやった。金額は少ないがな」
代金は8000円弱だった。

送受信が出来ないのに何故かスパムだけが届く。貴方は、接続自体が異常なのだと思った。
緊張で頭に血が登るのを感じながら、真新しい高性能ルーターを調べた。
すると果たして、自分で登録したプロバイダーのアドレス以外に、もう一つの接続設定が見つかった。 「/*.*」、このアスタリスク記号は、“全て”を意味する特殊文字だ。つまり全てのアクセスを受け入れろという意味の設定である。そのルーターは、2日前に買ってきたばかりだった。

その頃は、翻訳や何か情報を得たい時は、面倒でもネットカフェまで行かねばならなかった。
だがどこをどう探しても、それらすべてを説明づける技術的な情報は見つからなった。
セキュリティソフトやメーカーサポートなど、助けになるはずのモノは何もかもが役に立たなかった。

古くからあるミドルウェアの一種で、「ラッパー」と呼ばれる技術がある。
ミドルウェアとは、簡単に言うと全く異なるシステム同士を連携させるための技術で、「ラッパー」はさらに、あるシステムで別のシステムを丸ごと包み込むように設計されたプログラムの事だ。
家のPCと利用中のネットサービスの状態は、その「ラッパー」を連想させた。

使えないPC群、その周りにいくつもの使えなくなった真新しいルーターやリカバリー用HDD、リカバリーディスクなどが散乱していた。貴方はそれを眺めながら、途方に暮れて思った。
『ここはまるで何かの実験場だ』